キャラクターの3D映像という文脈を介して舞台芸術に触れる─ディズニー ツイステッドワンダーランド『ブレイジングジュエル』感想─

 ディズニー ツイステッドワンダーランド『ブレイジングジュエル』3Dライブ(以下、本作)を観にいった。
 3Dライブといえばパッと想像されるのは初音ミクのライブである。観客が見るのは映像であるのに、まるでそこにいるかのように感じる。3Dライブの楽しさというものを、そういうものとして解釈し、観に行くことにした。本記事は、本作を観に行ったことで3Dライブとはどういうものかと考えた内容と、そして本作が3Dライブだったからこそ私が得られたものについて述べるものである。ライブパフォーマンスの内容には触れるが、MC書き起こしなどのレポ的な記事ではないことを断っておく。

 本作が3Dライブであったことで私にもたらされたものは、「文脈の提供の機会」であった。
 私は言語偏重のきらいがある。ダンスよりも歌、歌よりもラップ、ラップよりもポエトリーリーディング、ポエトリーリーディングよりも独白、独白よりも会話劇を好む。
 友人のミュージカルやダンスパフォーマンスを観に行くことはある。普段からこんな調子だから友人たちは私が観にくると不安に思うこともあるらしい。しかし、「友人の」ミュージカルやダンスパフォーマンスであれば、私はむしろ前のめりに楽しむことができる。感動して泣いたりもする。
 そこには「文脈」があるからだ、と捉えている。かれらが生活をし、人生をやり、その中で練習をして、今日この日にたどり着いたということを、私は断片的にだが知っている。かれらがなにか、ミュージカルやダンスに思いがあって、ここまで続けていることもしっている。だからそれを踏まえて楽しむことができる。
 しかし、知らない人のそれらを同じように楽しむのは難しい。ミュージカルという営みそのもの、ダンスという営みそのもの自体の魅力には、まだ肌感でわかるほど触れられていないと感じていた。プロの人々のそれらはアマチュアの友人たちのパフォーマンスよりも優れているはずなのに、その動き自体がかっこいいとか難しそうとかいうことはわかるけれど、それを踊ること、踊りや歌で表すことで何が起こっているのかを捉えられずにいた。

 3Dライブというものは、言ってしまえば最初から映像が作られている。それがスクリーンに投影されて、舞台上の照明やプロジェクションマッピングで彩られたものだ。彼らの見た目で踊っている動きはおそらくモーションキャプチャーを利用して作られたもので、動きの本体はもちろん彼らではない。声優のパフォーマンスを楽しむ目的の作品でもないから歌も生ではなく録音である。
 こう書くと「キャラクターの見た目を使っている」ということ以外は味気ないもののように感じる。しかし、この仕組みだからこそ感じられたものがあった。

 本作は、というかもしかしたら昨今の3Dダンス映像はそうなのかもしれないが、キャラごとにダンスの熟練度や、うまさの方向性が異なり、それぞれの個性を反映する作りになっている。プロのダンサーがそれぞれの個性を見せるように踊り、プロがモデルの動きをさらに調整している。振り付けもプロが行い、「魔法が使える」「ヒューマノイドである」といった性質を持つかれらの非現実的な動きも加えられている。そして歌はプロの声優が行い、舞台演出のプロが照明や音楽などの演出を加えている。
 たくさんのプロの人間が集まり、彼らというキャラクターをひとりひとり作り上げている。これによって私は、「彼ら」という「知っている人」という文脈の上で、多数のプロが関わった舞台芸術に触れることができたのである。

 具体的なライブパフォーマンスに触れる。私が最も感動し、「ダンスって、もしかしてすごいのかも……」と感じたのは、ジャミル・バイパーのソロ曲『蛇と瞬き』である。
 かれはゲームストーリー中でもダンスが巧みとされていた。だからおそらく、動きも巧みなものに設定されていたのだと思う。

”星はまた砕けて 願いも砕けた”

 という一節が、彼のソロ曲にはある。「願いも」のところで宝石の形のように合わせた両手を「砕けた」のところでスッと左右に話す振り付けに、私は考え込んでしまった。
 「砕けた」という言葉に沿った、言ってしまえば特に意外性のない振り付けだったように思う。しかしその、静かだが速く、スムーズだがメリハリがあり、しかし「キレキレ」というほどパキパキとしていないその動きに、「ああ、彼の望みが、あっけなく断たれたのだな」と感じることができたのだ。
 動き自体は小さく、何気ないものなのに、とにかく「動きでしか表せない、悲しいような、やりきれなさ」を感じて、私はここで初めて「ダンス」または「洗練された動き」というものの芸術性を肌で感じたように思う。

 また、ヴィル・シェーンハイトのソロ曲『crépuscule』においても同じような体験があった。俳優をやっている彼らしい、ミュージカル感のある情感たっぷりのパフォーマンス。
 これも、彼の悔しさを表すのに「前のめりになって大きな声で歌い上げる」という、「大きな演技」というか、動き自体は特に意外性のないものが当てはめられていた。しかし、肩の動かし方なのだろうか、歌との合い方なのだろうか、それとも彼の寮服の裾のはためき方なのだろうか……似たような動きが続くのに決して飽きることなく、「ずっと観ていたい、ずっと観ているよ」と感じさせるパフォーマンスになっていた。ミュージカル的なパフォーマンスへの感動に、また少し近づくことができたのだ。
 
 すこし強い言葉かもしれないが、私は本作が、生身の俳優によって演じられるものでなくて本当に良かったともう。それはそれで別の芸術に触れられたかもしれないが、生身の俳優には彼らそれぞれの人生やキャリアという「文脈」が生まれる。そしてMC中の一つ一つの動きも、正直「キャラクター同士の仲の良さ」を反映しているのか、「俳優同士の絆」を反映しているのか判断しきれないところがある。そういった、キャラクターとは別のところに文脈を感じることも好きだけれど、それではジャミルの動きにダンスの芸術性を見出したり、ヴィルのパフォーマンスにミュージカルの良さを感じたりすることは難しかったように思う。
 
 3Dの映像に複数のプロが関わっている、ということは、そのプロの人々が匿名化されることと表裏一体だと思う。ではかれらは、NRCのキャラクターの糧となって消えてしまうのか。私はそうではないと感じた。
 匿名化されているからこそ、ダンスやミュージカルというそれぞれの芸術分野全体に対して認識を更新できた、と少なくとも私は感じている。たとえばもし2.5次元ライブでヴィルのパフォーマンスに感動した時、「特定の俳優の演技がすごいから素敵だと思った」という可能性がどうしても出てきて、「俳優自体が好きだったのか、その芸術に感動したのか」ということがどうしても混じってしまう。それは混じるから良いのだ、ということもあるかもしれないが、個人的の経験の中で結局蓋を開けてみたら「ものすごく上手くて見た目とスタイルが好きな人の動きだったからいいと感じた」ということはある。そこが混じるのが人間だし、そこから始まる芸術理解ももちろんあると思うが、正直ここまでダンスやミュージカルに親しむ文脈が乏しかった人生の一個人からすると「そこから始まる」こと自体が難しいのである。

 本作が3Dライブだったことによって、私とダンスやミュージカルといった大きな舞台で行われるパフォーマンスを繋ぐ文脈が用意され、プロの完成された映像であるからこそ理解できた動きの芸術性やミュージカルで起こる感動があった。わたしは、ディズニー ツイステッドワンダーランドの製作陣が、あくまでも彼らを「キャラクター」として私たちに見せてくれたことを本当に嬉しく思う。
 関わった方々、本当に本当にありがとうございました。あなたたちのおかげで、私はミュージカルを観てもいいかもしれないと思っているし、ダンスのことをもっと知りたいと感じています。こうやって文化に触れさせてくれることに、本当に感謝しています。

 今後3Dの彼らの展開があればとても嬉しいです。また新しい文化に私を触れさせてください。

 最後に、本作はディズニープラスによって期間限定で配信が決定している。みんなでみよう!楽しみです!

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