わたしを作ったかもしれない本たちの話

「わたしを作った児童文学5冊」というタグが回ってきた。

こういうものをサッとリストアップして、あわよくば同じものを読んでいた人と思い出話に花を咲かせて…ということを夢見るのだが、「わたしを作った」というとなかなか難しい。

自分が最初から最後まで読めた本=自分を作った本という式は、あまり成り立たないように思う。当時は本を読むという行動自体が目的で、物語の内容を知ることは、読むという行為を完了する際に付随する副産物的なものであった印象がある。

小学生の頃、本の虫であるということは、わたしにとって何よりもイケていることだった。冊数は多ければ多いほどよく、本は分厚いほどいい。夏休みにはいつもより多く本が借りられるのだが、その時に伝記を借りてゆっくり家で読むというのがいかしてる、と信じて疑っていなかった。本好き、と言うより、「本好き」好きであったように思う。

モーツァルトやヴェートーベンやニュートンの生涯は、読み終えた自身の自己肯定感にすっかりとってかわられていて、さっぱり私の中に残ってない。

それでも、まあ今でも思い出せる本と、きっと忘れている本があるので、たらたらと少年期に読んだ本の話をしていきたいと思う。

泣いちゃいそうだよシリーズ

小学校の図書室の、トイレに近い側の入り口を入ってすぐ左手側に文庫本コーナーがあった。わたしと青い鳥文庫との出会いはこの辺だと思う。当シリーズは「泣いちゃいそうだよ」から始まるのだが、わたしはたぶん3巻の「いい子じゃないよ」から借りたと思う。当時は漫画であれ小説であれ、平気でシリーズの途中から読むことができたのである。余談だが、地区の図書館で花より男子を大体履修したけれど、最後まで1,2巻が借りられず、「赤札!」も「宣戦布告よ!」と読めたことがない。

いい子じゃないよ、の表紙はロングヘアの女の子が屋上で物憂げな顔をしているものだった気がする。当時天然パーマがひどかった私はサラサラヘアーに憧れていて、表紙の女の子(蘭だったっけ)がまさにサラサラヘアーだったので借りたような気がする。泣いちゃいそうだよシリーズは確か一章が1か月の内容になっていて、章タイトルが(Julyなど)月の英語名だったのでこれで英語をおぼえた部分もある。それぞれの1年の最初から最後までを一巻で書いてくれるので、途中の巻から読んでも大丈夫みたいなところがあったんだろうな。

それぞれの巻でそれぞれの女の子が主人公で、基本的に朝起きてコーヒーを飲んで、髪をとかして、クッキーを焼いて、みたいな丁寧な暮らしをしているので、物量が圧倒的に多いごちゃごちゃした部屋で素敵な暮らしを夢見ながら読んでいたような気がする。

多分「いい子じゃないよ」で主人公が1年を振り返る描写で、「2月に飲んだあたたかいココア」という一節があり、それがいまだに印象に残っている。そこから想像されたココアの味を現実が超えることはまだない。

黒魔女さんが通るシリーズ

昔、確か小2から中1くらいまで、魔女になりたかった。小2の休み時間は、校庭の小山の裏ではっぱをすりつぶし、それを瓶にため込むということをやっていた。どこで習ったわけでもないが、これが魔女になることにつながると信じていた。

ハリーポッターは確か映画を先に観た。だんだんわかってくるのだが私は「ハラハラドキドキ」というものが好みではなかったため、魔法使いの世界があんまり楽しそうではなく、当時はあまりハマらなかった。

読み始めたきっかけは全然覚えてないが、なんとなく読んだら話の序盤で魔女の修行の話があり、しかもそれが早朝起きてベッドメイキングをして部屋を片付ける、という何とも健康的なものであったので、かなり心惹かれた。わたしは早寝早起きや一日何時間勉強するとか部屋の掃除をするとか、そういう「健康的でちゃんとした暮らし」が物語で描かれてそれをまねするということが大好きなので、そういう意味で趣味の合う作品だったと思う。今見るとキャラデザかわいいな…。

怪盗クイーンシリーズ

学校の図書室である期間だけ、「先生からのオススメの本」が展示されることがある。昼休みの図書室は混雑していて、貸出口まで壁側に沿って並ぶ必要がある。並ぶところにある本棚は小学生の腰程度の低さで、その棚の上に推薦本が展示されていた。そのうちの一冊に、結局最後まで授業を受けることのなかった理科の先生のおすすめとして「怪盗クイーンはサーカスがお好き」があった。

いかした読書家である私はもちろん先生のおすすめ本もチェックしなければならない、みたいな自意識で読み始めたと思う。特に怪盗にも推理小説にも興味はなく、今後結局はやみねかおる以外の推理小説を読むことはないのだが、なんとなく読み続けていた。

怪盗クイーンシリーズのイカしている点はなんといっても分厚いことである。そして、分厚い巻には「読書力認定証」みたいなページが最後についており、これによって私の「分厚い本を読むのが一番イカしてるんだ!」という自意識は形成されたと言ってもいいだろう。

夢水清志郎事件ノート

怪盗クイーンの流れで夢水清志郎も読むようになった。主人公のお母さんの一日を描いた話が妙に記憶に残っている。主人公は三つ子の長女で、三つ子はそれぞれ小説を書く、スポーツをする、新聞を読んでスクラップをするという独自の趣味を持っているのだが、その回ではその趣味を家事をやりながら楽しんでいる母親が描かれており、なんかいいな、と思ったことをおぼえている。たしか登場時から主人公は文芸部に入っており、当たり前に小説を書いていたのもいいなと思う。小説を書くのは決して特別なことではなく、スポーツやスクラップとおなじくらい気軽にやってよいものなのだ、という感じが出ているし、創作している人としていない人の区別もしていなかったように思う。

都会のトム&ソーヤ

これもはやみねかおる繋がり。主人公が一巻で食べていたコンビニおにぎりが本当においしそうで、当時コンビニに入ること、コンビニおにぎりを食べることがほとんどなかった自分は、習い事の際のお昼ご飯としてコンビニおにぎりをお願いしたことをおぼえている。

風に乗ってきたメアリー・ポピンズ

小学校一年生の時に一生懸命読んでいた。ちなみに今でも読み終えられていない。漢字が書いてある本を読むのがかっこいいと思っていたので、学級文庫にあったこの本を開いて読めない漢字を逐一担任に聞いていたことをおぼえている。

ティアラちゃんシリーズ

3~11歳までバレエをやっていた。母親がもともと好きで習い事の選択肢としてあったのだが、始めた理由は発表会で素敵な衣装を着られるからというものと、基本的にピンク色が多いというものだった。ピンクが好きだった。その流れでプレゼントされたかねだったかした本だったと思う。一巻は確かピンク色だった。こういうバレエを一生懸命やる本を読んだ週はストレッチにいそしむのだが、基本的にストレッチが嫌いなのでそれ以降はやらず、体が硬いので基本的に落ちこぼれだった。

何を書いたか覚えていないけどこの本を題材に書いた読書感想文で賞をもらったことがある。このとき、かぎかっこのついた内容を書いている途中で次の原稿用紙に移ったとき、ひとマス空けて書くという原稿用紙の使い方を知った。

砂糖菓子のトウシューズをつくる回が好きだった。

ロイヤルバレースクールダイアリー

これも、これを読んだ週はちゃんとストレッチをする、という本である。主人公が日記をつけているのだが、その日記の冒頭は常に「○○(地元の親友)へ」であり、手紙の体裁で書かれているというのが面白かった。日記をつける、というのもわたしのイカしている行いリストには入っていたが、なかなか続かなかったため、これをまねしたこともある。一冊分は続いた。ちなみに「○○へ」のところは本書の中で私と同様にストレッチが苦手なソフィーという女の子の名前を借りていた。ごはんがおいしそうでよかった。職業モノの本が好きなのはここからきているかもしれない。

クローディアの秘密

対象年齢、というものが児童書の文庫本の裏表紙には書かれていたと思うのだが、それが自分の年齢より上のものを読む、というのもわたしのこだわりだった。美術館に忍び込む、という本当はできないことではあるのだが、たぶんだけどかなり現実レベルが高い(ファンタジー度が低い)話になっていて、趣味が合うな~と思った。美術館に忍び込んで暗闇で食べたスナックみたいな描写なかったっけ。それがすごいおいしそうだった気がする。

基本的にでかめの自意識で読む本を選んでいるのがばれた気がしてたいそう恥ずかしいが、まあこんな感じだったように思う。昔夢中になって読んでいた本とかがあったら教えてほしい。

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「十年後に盗みだす」わたしたちへのエール―怪盗クイーン初期3巻における運命―

※2022/7/12 誤字修正・加筆

はじめに

本記事は、はやみねかおるによる『怪盗クイーンはサーカスがお好き』『怪盗クイーンの優雅な休暇』『怪盗クイーンと魔窟王の対決』の3作品において、「運命」、及びそれと向き合う「怪盗クイーン」がどのように描かれているか、筆者の所感を述べるものである。なお、筆者は10年以上前に何度か今回取り扱う作品を通読しているが、今回の記事はそれ以来ぶりに一度ずつ通読した程度のものであるため、内容の厳密性はご容赦いただきたい。また、以下『『怪盗クイーンはサーカスがお好き』『怪盗クイーンの優雅な休暇』『怪盗クイーンと魔窟王の対決』をそれぞれ「サーカスがお好き」「優雅な休日」「魔窟王の対決」と表記する。

本記事における「運命」

日本国語大辞典によると、「運命」は以下のような意味である。

うん‐めい 【運命】
人間の意志を越えて、幸福や不幸、喜びや悲しみをもたらす超越的な力。また、その善悪吉凶の現象。巡り合わせ。運。命運。転じて、幸運、寿命、今後の成り行き。

『日本国語大辞典 第二版』小学館 
japan knowledge(https://japanknowledge.com/lib/display/?lid=200200767c20yKAn5LWW)より。

本記事では、運命について述べる際、基本的にはこの記述に従い、異なる場合は注釈をつける。

「サーカスがお好き」における運命

キンドルで簡単に検索したところ、「サーカスがお好き」には「運命」という語は使用されていない。しかし、クイーンの台詞に以下のようなものがある。

「中国の兵法書に、つぎのようなことばがあります。」

ホワイトフェイスの前に座っているクイーンがいう。

「『勝利は、戦うまえに、すべて、すでに決定されている』――公演がはじまるまえに、すでにゲームの勝敗はついていたんです。」

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンはサーカスがお好き』講談社青い鳥文庫,kindle版270ページ

このクイーンの台詞は、「運命」に近いものを述べていると考えられる。このとき、運命、すなわち人知の及ばぬ力の働く対象はクイーンとホワイトフェイスである。クイーンは本人そのものが人並み外れた能力を持っており、ホワイトフェイスが運営するセブン・リング・サーカスは政府組織とつながりがある。「サーカスがお好き」における「運命」は、特別な存在に関わるものであり、政府組織という特異な存在であるセブン・リング・サーカスに取り巻く非情な運命を、人並み外れた能力を持つ怪盗クイーンが一時的にキャンセルする(盗む)物語となっている。

「優雅な休暇」における運命

「優雅な休暇」から、本格的に「運命」という語が使用され始める。

わたくしは、今まで自分の運命からにげていました。だから、いつのまにか竜が、心の中で大きくなっていったのです。もう、わたくしは、にげません。にげたくありません!

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンの優雅な休暇』講談社青い鳥文庫,kindle版363ページ

「もし、ほんとうに自分の運命を切りひらいて生きていきたいのなら、あなたは本物の雷管をぬく。でも、竜の意志のほうが強かったら、あなたはにせの雷管を抜く。」

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンの優雅な休暇』講談社青い鳥文庫,kindle版363ページ

このとき、運命の対象者はイルマ姫である。イルマ姫はその身分から、将来王女になることが決定されている。幼少期は違和感なくそれを受け入れていたが、段々と受け入れがたくなり、イルマ姫は自分の運命を拒絶するがゆえに自身を亡き者にしようとするもう一つの人格を作り出してしまう。しかし、イルマ姫は最後には自身の運命を受け入れ、国に戻る。「優雅な休暇」におけるクイーンの出演シーンは多く、活躍もしているが、この運命に関してはクイーンは第三者となり、ラスト、彼女が国に無事に宝石とともにかえるための手続きのお手伝いをするという形でしか参加しない。ここから、「運命」の対象者が、一段階、読者である「我々」に近くなる。運命はクイーンだけでなく、シャンデリアに登ったら転げ落ちてしまうような女の子にも働くものなのである、と提示されている。

「魔窟王の対決」における運命と意思

「魔窟王の対決」は、運命が主題の一つと言ってもいいだろう。「サーカスがお好き」では0件、「優雅な休暇」では5件であった「運命」という語は、「魔窟王の対決」では11件使用されている。また、「運命」に強く関わると考えられる「意思(意志)」という語も、「サーカスがお好き」では1件、「優雅な休暇」では2件のところ、「魔窟王の対決」では27件使用されている。

「説明するのは、なかなかむずかしいですね。ただ、はっきりいえるのは、怪盗の美学を実践することが、私の運命だということです。」

「運命ですか――。」

王嘉楽が、からになったグラスにブランデーをそそぐ。そして、またきいた。

「あなたは運命論者ですか?」

「いいえ、私は神も仏も信じてません。運命などという言葉で、かんたんに未来をうけいれようとは思いません。わたしの行動を決定できるのは、わたしの意思だけです。」

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンと魔窟王の対決』講談社青い鳥文庫 kindle版114ページ

ここで、怪盗クイーンにとっての「運命」が定義づけられる。クイーンにとって「運命」とはドラマチックな言葉、であり、何をも超越した抗いがたい力ではない。怪盗クイーンは自分の意思で、自分の運命を「怪盗の美学を実践すること」と位置付けることができる、可変なものとしている。

また、「魔窟王の対決」では、怪盗クイーンの獲物として、「運命」を象徴する「半月石」が提示される。半月石の主である王は、また、それを取り巻く人々は、「半月石の力で王はこの立場におり、四龍島ができている」と信じている。ここで「信じている」と記述するのは、「魔窟王の対決」において明確に半月石の力があるのかないのかが描かれていないからである。しかし、少なくとも、「魔窟王の対決」の登場人物の多くは、四龍島の住民は、半月石を知り、半月石の力を信じている。

半月石を知ってから、クイーンを含む登場人物は「今行っていることは自分の意思によるものだろうか?」と疑い始める。すべては半月石の目的に沿った行動なのではないか、という思考が、ふとした時によぎる。

運命の対象者は、「魔窟王の対決」において、読者の「われわれ」のような、一般市民にまで広がるのである。

気に入らねえな……。

ヴォルフは、つばを吐いた。

もちろん、王は気に入らないやつだ。しかし、それ以上に、島の人間の方が気に入らなかった。

島の人間の目――暗く、よどんだ目。人生を楽しむことをわすれ、生かされているだけの者の目。

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンと魔窟王の対決』講談社青い鳥文庫 kindle版130ページ

「四龍島城砦から、でたいの?」

龍狼の質問に、小牙はうなずいた。

「だって――。」

そういう小牙の目は、さっきまでとはちがう。暗くよどんだ光をはなっている。

「ここにいても、未来はないもん……。」

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンと魔窟王の対決』講談社青い鳥文庫 kindle版176ページ

運命の力を感じた一般市民の反応は「無気力」であった。自分ではどうしようもできない。今後の運命は決まっている。島の人間の目からは、そのような「あきらめ」が読み取れる。また、青い鳥文庫の対象年齢である小学生ほどの少年、小牙の描写を見ても、このような「運命」を感じることが、読者にもあるであろう、ということが提示されていると考えられる。

どのような家に生まれたか、どのような地域に生まれたか、どのような学校に入ったか、それで、自分の今後が決定されているように感じること、そして、それはきっと、このまま自分が変わらなければ、想像通りに展開されるであろう、という瞬間は、しばしばあるだろう。それは、自分の力ではどうにも変えがたいように思われ、その強大な力は、「運命の力」と言ってもいいほどであるときさえある。

そのような「運命」を感じさせる存在が、「魔窟王の対決」では半月石という形で描かれている。

しかし、繰り返し述べるように、「半月石」(すなわち、運命)の力は、明確には描かれていない。「王は半月石のおかげで出世したのだ」とも、「半月石の力は本当にあった」とも、書かれていないのである。

「じゃあ、クイーンさんが弾丸をぬかなかったら……。」

「わたしは死んでただろうね。わたしが助かったのは、半月石の力じゃない。つまり、まだ、半月石は、怪盗に盗まれることを望んでないということだよ。」

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンと魔窟王の対決』講談社青い鳥文庫 kindle版281ページ

王の撃った銃が不発だったのは、クイーンが弾丸を抜いていたからである。では、なぜ、王は負けを認め老いてしまったのか。

ここに、「魔窟王の対決」における、「運命」に関するメッセージが込められていると考えられる。

王は、「クイーンに自分が負ける」という運命を、信じてしまったのである。運命を信じるということは、変えがたい力を感じるということで、すなわちそれに降参することにつながる。王も四龍島の住民と同じく、「生かされているだけ」の存在となってしまった。

運命は、信じた瞬間に効力を発する。そんなものは本当にはないのか、気づいてないだけで本当にはあるのか、実際のところは分からない。

しかし、信じてしまったら、そして、あきらめてしまったら、運命は、運命となり、その力を自分に行使する。

それを変えるのは何か?クイーンの、小牙の、折れた刀でガラスをぶちやぶったジョーカーの、そしてわたしたちの、「意思」である。

小牙の境遇は物語を通して決して変化はしていない。しかし、小牙の意思は変化した。

「十年たったら、自分の力で盗みだします。」

はやみねかおる(2013)『怪盗クイーンと魔窟王の対決』講談社青い鳥文庫 kindle版281ページ

小牙は、「いま」は、クイーンのように半月石を盗み出すことも、その上で捨てることもできない。しかし、十年たったら、と小牙は言った。

この言葉は、小牙の年齢から、読者へ向けられたものととらえられるだろう。

クイーンは、運命を信じないことができる。運命を盗み出し、その上で捨てることもできる。

しかし、読者である我々は、半月石の存在を常日頃感じてしまっているし、時には信じてしまいそうなときもある。いままさに、「親に本を読めと言われたから」、四龍島の住民のような目をして怪盗クイーンシリーズを読んでいるかもしれない。

しかし、「魔窟王の対決」を読んだ読者は、小牙とともに、大事なことを知った。

十年後、自分の力で盗み出す。赤い夢の住人であるならば、きっとそれができる。そのようなエールが、「魔窟王の対決」には込められているのである。

終わりに

本記事では、怪盗クイーンシリーズ初期3巻における「運命」、そしてそれと向き合う怪盗クイーンがどのように描かれているかについて述べた。「サーカスがお好き」では「運命」はクイーンやセブン・リング・サーカスのような特別な存在に働き、超越者であるクイーンはその運命をひと時盗むという形でかかわる。「優雅な休暇」では「運命」は能力的には一般的な人間と言ってもいいイルマ姫を対象として、クイーンは彼女が運命をうけいれるための手続きを手伝う第三者として描かれる。「魔窟王の対決」では、「運命」は信じた瞬間から効力を発するが、意思の力で変えることができるもの、そしてクイーンは明確な意思を持ち運命を拒絶する者として描かれ、クイーンとはことなる一般市民である小牙の運命が小さく変化する所まで描かれている。

日々の行動で自分の生活は作られる。そして、日々の行動を選択するのは自分の意思である。運命を信じ、意思を持つことが無駄に思えたとき、半月石の存在を感じ、その効力を信じてしまったとき、我々は四龍島の住民となる。クイーン一味が自分の意思を疑う瞬間があったように、そのような瞬間は、だれにでも―クイーンにでさえ―おとずれる。その時に思い出せるように、そして前に進めるように、そのような祈りが、特に「魔窟王の対決」に込められているように感じた。

読んでいただきありがとうございます。もしよろしければweb拍手を送ってくださるとうれしいです。

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できることとできないこと

最近の考え事として、「できないこと」というのは、「それまでやらなくてよかったこと」なのではないか、逆に「できること」は「それまでやる必要があったこと」なのではないか、というものがある。

例えば私が特に面白くもない自分の話を延々とできるのは、周りに「黙れ」と言われた経験が少ないこともあるが、むしろ、「今日何があったか」を正直に話した方がいい状況の方が人生のうちで多かったから、とも考えられる。そんな状況が多ければ、人と話す場所で「静かにしていなければいけない」という経験は少なく、「話す場所で黙る」という行動は内面化しにくい。私は黙ってなくてもよかったから黙ることが苦手だし、話す必要があったからただ自分の状況を報告することは得意、ということなのではないか。

このように、人のこれまでの状況によってできることとできないことは変わってくる。厄介なのは、「こういうことは出来たほうがいい」「こういうことは出来なくてもいい」という価値観がなんとなくできていることだと思う。また、「こういうことができる(できない)人は、こんな性格である」という思考パターンができているのも厄介だな、と思う。

自分から話せる人は明るくて、常に笑顔の人は優しくて、寡黙な人は大事なことだけを話せる人で、無表情の人はこちらに関心がない、というような。

すべては「慣れ」なのだ。話さなければいけなかった人は話すことに慣れていて、笑顔でいたほうがよかった人は笑うことに慣れていて、黙らなければいけなかった人は沈黙に慣れていて、へらへらするなと言われた人間は無表情でいることに慣れている。それがそのまま明るい・やさしいなどには、きっとならない。それぞれのことに慣れる人生を送ってきた、と言うだけのことで。

それぞれがそれぞれの好きな「慣れ」を持つ人間を選り好んで交流しており、そこに正当性の高低はない。

私は自分とは違う慣れをもつ人間が好きだし、違う慣れを持つに至った人生のかけらを聞きたいな~と思っている。そしてどうにか、今からでも、違うことに慣れていきたい。

とりあえず聞き上手になりたい。

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サイトの引っ越しが大体終わった

いろいろあってふと思い立って、サイトをjimdoから引っ越した。

サーバーをレンタルし、HTML指南書を購入し、特典のテンプレートをダウンロードして、見よう見まねでサイトを作成した。HTMLをいじるなんて中学校の技術の授業以来だったが、本を読みながらだとなんとかなるもんだ。

HTMLいじり、本があれば大体スムーズにいくし結果がすぐに反映されて修正も容易なので、PDCAサイクルをどんどん回すことができる。久しぶりに熱中できる趣味を見つけた。とても楽しい…。

ブログページだけはカテゴリ別、月別のページを作るのがあまりにも面倒だったのでwordpressを導入した。

この調子で同人サイトも作っていきたいし、同人作品もどんどん作っていきたい。

ちなみに買った本はこちら。テンプレート特典もついてるのでやりやすいです。

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