できることとできないこと

最近の考え事として、「できないこと」というのは、「それまでやらなくてよかったこと」なのではないか、逆に「できること」は「それまでやる必要があったこと」なのではないか、というものがある。

例えば私が特に面白くもない自分の話を延々とできるのは、周りに「黙れ」と言われた経験が少ないこともあるが、むしろ、「今日何があったか」を正直に話した方がいい状況の方が人生のうちで多かったから、とも考えられる。そんな状況が多ければ、人と話す場所で「静かにしていなければいけない」という経験は少なく、「話す場所で黙る」という行動は内面化しにくい。私は黙ってなくてもよかったから黙ることが苦手だし、話す必要があったからただ自分の状況を報告することは得意、ということなのではないか。

このように、人のこれまでの状況によってできることとできないことは変わってくる。厄介なのは、「こういうことは出来たほうがいい」「こういうことは出来なくてもいい」という価値観がなんとなくできていることだと思う。また、「こういうことができる(できない)人は、こんな性格である」という思考パターンができているのも厄介だな、と思う。

自分から話せる人は明るくて、常に笑顔の人は優しくて、寡黙な人は大事なことだけを話せる人で、無表情の人はこちらに関心がない、というような。

すべては「慣れ」なのだ。話さなければいけなかった人は話すことに慣れていて、笑顔でいたほうがよかった人は笑うことに慣れていて、黙らなければいけなかった人は沈黙に慣れていて、へらへらするなと言われた人間は無表情でいることに慣れている。それがそのまま明るい・やさしいなどには、きっとならない。それぞれのことに慣れる人生を送ってきた、と言うだけのことで。

それぞれがそれぞれの好きな「慣れ」を持つ人間を選り好んで交流しており、そこに正当性の高低はない。

私は自分とは違う慣れをもつ人間が好きだし、違う慣れを持つに至った人生のかけらを聞きたいな~と思っている。そしてどうにか、今からでも、違うことに慣れていきたい。

とりあえず聞き上手になりたい。

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