「今月中に小説を一本書く」と息巻いていたが、どうにも書き出せずにいる。アイデアは微妙にあるものの、あっちこっちに散らばっていて、あまり体系をなさない。
私の場合、やりたい出来事はなんとなく出来上がっているのだが、核となる登場人物のことを考えるのにものすごく難儀している。このままでは出来事の羅列になり、感情描写や行動描写に苦難することが目に見えている。何より面白くなさそうだ。
この本の最初の解説の部分を読んでみて、やっぱり感情って重要だし、感情描写には登場人物の精緻な練り込みが必要だと感じた。だから小説を書くのだとするなら、やはり登場人物のことをきちんと考えなければならない。
これが本当に難しい。
以前朝本箍さんと行ったインタビュースペースでも述べたが、私は人型のオリジナルキャラクターを作るのがすごく苦手だ。小説においてもそうらしい。キャラクターの設定を練るとなると、途端に頭がこんがらがってくる。
決定するのが苦手なのだ。その人物の側面を。例えば、私が眼鏡のキャラクターを作り、「理知的である」としたときに、それはそのまま「小渕リツ子は眼鏡と理知的という性格を少なからず結び付けている」ということが露呈してしまうのではないだろうか、と考えてしまう。感情類語辞典にも登場人物の背景について考察するためのヒントが書かれており、「このような経験から、このような思考にもなるだろう」ということが書かれていた。
確かにそうかもしれない。私自身の性格を振り返ってみても、経験と思考は強く連関しているように思える。
しかし、それを登場人物において決定してしまうことは、私の偏見の表明になってしまうのではないだろうか。いや、ごちゃごちゃかいたけれども、なによりも、私自身が私の偏見を見たくない、というのが近いような気がする。
身だしなみを気にする人間にワックスをつけさせること、内気な人間のノートの字が涼しげなこと、大学を留年している人間の家にペットボトルのごみがたまっていること
それぞれは私の偏見である。そうでない人間もたくさんいる。
対処法はわかっている。何よりも個人として登場人物を描くことだ。その属性を背負う代表のかたちとしてではなく、名前を付け、過去を決め、重要な思い出を作り、見た目を考え、様々な側面を多様なグラデーションで持つ個人として描くこと。それによって偏見は重要な機能を果たす。
私は登場人物たちと、個人として向き合わなければならない。そんなことはわかっている。けれども怖いのだ。
存在しない人間のことを考えるとき、どうしても私本人が、人間としてそこに立たなくてはならなくなる。
私のかたちが否応なくわかってくる。ワックスをつける人間を別の世界のおしゃれさんだと思っていること、内気な人間のノートを見てきれいな字だなと思った過去、勉学がおろそかになれば生活もおろそかになるのではないかという思考回路。
そういう私の愚かな姿勢が明らかになってくる。これは読者に知らされることはないのかもしれない。しかし何より私に痛いほど私のかたちが刻まれてしまう。
それがすごく怖いのかもしれない。むしろ、その形がわかりたくないから、いままで登場人物の設定を決めることを拒んできていたのかもしれない。
自分のかたちがわかるのは怖い。自分がどうしようもない人間だとわかってしまうから。
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