インターネットお絵かきマンでなくてもいいか

冗談抜きでここ十年くらい、わたしのSNS生活の根幹となっていたのは「インターネットお絵かきマンでいたい」という感覚である。

絵を見てもらいたい、自分の絵の魅力を知ってもらいたい、という感覚が、ずっとずっとあった。しかし、ここ2週間、そんな感覚がしゅるしゅると自分から失われていくのを感じている。

年に2,3回やって来るSNS疲れの波がやって来た時、ふとツイッターのアカウントを消してみた。消して不都合が起きるようなアカウントでは、全ツイートを削除してみた。このときの感覚が、これまで同じようなことをしたときの感覚と、かなり種類が異なるものであったのだ。

以前は、もっといい絵を描いて自己を更新していこう、というものだった。もっといい絵、というのは、これまでの自分の系統を引き継いだ、さらに成熟したもの、という意味だ。

しかし、今回は違った。その時から少なくともこれを書いている今は、しばらくこういう自分の絵から離れたい、という気分になっていたのだ。

同時期に、抱えて数年になる悪い思い出がわきだしてきて精神的にかなり落ち込み、それをどうにかするべく小説を書いてみた。トラブルがあった相手について書いたほぼエッセイのようなものであり、とても作品と呼べる代物ではない。しかし、これまで作ってきたどんな作品よりも、自分の中に発見があるものだった。

詳細は省くが、この、ほぼエッセイのような恨み言のような書き散らしを生み出すことで、わたしは自身の欲望を理解した。そうしてようやっと、その欲望がかなわないものであることを実感し、抱えていた問題を大事にすることを辞められたのである。

ここで、わたしの創作に関する姿勢が、目的が、「自分を知ること」という方向へシフトしていった。

今まで絵を描いているとき、なぜ絵を描いているのか、何を伝えたくて絵を描いているのか、まったく考えてこなかった。ひまつぶしのうちの一つとして、これで人と繋がれるならもうけもん、という感覚だった。

しかし、それでは自己の認識は更新されない。なにも込めてないからである。込めるつもりで描いてきていなかった。それが楽しい時期があって、それはこれからも来るかもしれない、しかし今は、何かを込めずキャッチーに仕立てる絵を描きたいわけではない。

そんな気分で描いたのが、本日創作サイトの方で更新した絵である。自分の心に浮かんだ景色を、資料を参照することなくそのまま描いてみた。それは車の後部座席右側の席から見た窓の向こうの景色であった。わたしはよく、そこにのせられて、喉が渇くからと水筒を持たされて、ぼんやりと窓の外を見ていた。

パッと見てなんとなくわかるが、とてもツイッターにのせる絵ではない、人に伝えるための工夫が一切ない。ただぐちゃぐちゃに描いただけである。これはインターネットお絵かきマンの絵ではない。

だが、わたしはこの絵が奇妙に好きだ。自分のあがきを感じる。最近少し始めたデッサンもそうだ。自分がいかに物を見るのが苦手で退屈かを表しており、とてもいとおしい。

しばらくは、こういう絵を描いてみたい。それはインターネットお絵かきマンではないかもしれないけれど、インターネットお絵かきマンでなくてもいいか、と、今は思えているから。

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