全ては強固な自我のあと―—「デ・キリコ展」感想——

デ・キリコ展に行った。

多分だが、一人の画家をフィーチャーした展示を見に行ったのは初めてなのだと思う。展示というものがそもそもそういうものなのかもしれないが、デ・キリコの関心の移り変わりと作品の移り変わりが強くリンクしているように感じられるものだった。

変な話をするかもしれないが、まるで故郷に帰ったかのような安心感というか、安堵感というか、居心地の良さがある展示だった。不思議な格好をしたキリコ自身が公園に立っている絵や、自画像が飾られている部屋の静物画をみたときに、おもしろさとともに、妙に肌に馴染む感覚があった。弟の肖像画にケンタウロスが描かれている意味などは正直わからないが、その意味のわからなさも含めておかしく楽しかった。

解説文をよく読んでないのできちんとは覚えていないのだが、キリコはポスターで使われているような絵ばかりではなく写実的な人間も描いていた時期があるし、一時期は「古典に回帰」していて、よく見る神話の絵のような絵柄になっている時期がある。ちなみに古典に回帰する時期が二度あって、中間でちょっと飽きるというか、冷めている時期があるのも面白い。再燃するオタクみたい。

で、「古典に回帰しました」という解説を読んで歩を進めて右を向いたらものすごく上手な花の絵(『菊の花瓶』)があって、それまでが「形而上的室内」とかいった抽象的なものだったので、「こんなのも描けるのかよ!」とおもってだいぶウケた。なんというか、抽象画を描き始めたらそのようにしかものをとらえなくなるのかなと思ったら全然そんなことなくて、だからより一層「形而上的室内」は「あえて」やってるんだ……となって、ウケた。こんなふうに全部いろいろ描けるのかな~とおもったら影の色が頑として黒かったり鼻が自画像同様ちょっとデカかったりして(『風景の中で水浴する女たちと赤い布』)、そこは絵柄の限界あるんだ……となった。

継続的に私のブログやてがろぐを見ている人は知っているかもしれないが、AIアートが現れて以降、うっすらずーっと「人間が描くということ」の自分なりの認識について考えている。で、私は基本的に絵とか、自分を表すメディアのことを、そのままの意味で「自己の表現」だと認識しているのだと思う。だから例えば、私の絵を学習させて私の絵柄で描けるAIが出来たとしても、それはそのAIの絵であって、私の絵ではないので、たとえ結果として全く同じ絵になったとしても絵を描く意味はあるだろうと考えている。そのくらい私にとっては「自分」という存在が前提のもので、自分があるから絵があるのだという認識である。これらは全て商売が関わらない話とします。

だから私は、その人の関心や、作業環境によって絵柄が変わっていくことの方により魅力を感じている。使う色の変化、取り入れるファッションアイテムの変化、それら含めて絵をみる、それを通してその人の一部を観測する、ということが面白味だと考えている。

基本的に人が先で、絵が後なのだ。だから後のほうにある絵をAIが描けるようになることは別に、人の絵をみることに関わらないだろうと考えている。

デ・キリコ展の心地よかったところは、ものすごく作品全体からキリコの「自分!自分!自分!自分はこう!」という巨大な前提が3D映像のごとく飛び出していたところだと思う。突然哲学の考えを取り入れたり、マネキンを描いた後に写実的な馬を描くことに、人々はいろんなつながりをみるかもしれないが「人間の関心はひとつじゃないし、ずっと同じ絵描いてることってなくないか?」というさっぱりとした宣言のようなものを勝手に感じた。ホットドッグを食べる日もあれば幕の内弁当を食べる日があるように、いろんな絵を描いて、たぶんキリコはどれも描いていて楽しかったのだろうと思う。寿司もピザもおいしいように。

そんな強固な自我を感じる展示だった。

デ・キリコ展は8月29日まで東京、9月14日~12月8日に神戸でやっています。

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